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『グレーからの新芽』 _読書エッセイ

佳作

『グレーからの新芽』

山本萌

 小学校に上がるまで、文字が読めず書けず。幼稚園では、協調性がまるでなく。自分の名前は何度教えられてもうまく書けず。

 そんな調子なので、ある時は母に連れられ病院で検査やカウンセラーを受けた。結果は、一般学級で事足りるが、ご家族と本人の意思に委ねるという『グレーゾーン』だった。心理カウンセラーに何度か通った記憶がある。先生は、とにかく、今は愛情深く見守りましょうとそんな毒にも薬にもならない事を母に伝えますます母は困惑しただろう。『グレーゾーン』その言葉は少なくとも私の幼少期に深い傷跡を残したが、特になんでもない風に、何も感じていないように曖昧な反応をすることが当時私にできる精一杯の孝行であった。

 そんな私にも、寝る前の読み聞かせだけは、一日のうち、とても幸せなひと時だった。物語も世界、絵本の世界はどんな日でも変わらず私を迎え入れてくれた。たとえグレーだと宣告されたあの日ですら。

 母は、病気がちで体力がなかったため、寝る前の読み聞かせは、絵本に付属していたテープによる読み聞かせが多かった。そのテープは長女のお下がりで、次女、長男が使い平成ど真ん中生まれの私まで受け継がれていた代物であった。テープにはA面とB面が存在し、途中でひっくり返す作業が必要となる。すでに隣で鼾をかいて熟睡している母を起こすのは気が引けたが、それでも物語の続きのほうが重要なので容赦なく叩き起こしていた記憶がある。読み聞かせの効果もあって、私はだんだんに文字も読める、書けるようになっていった。

 高学年になるとアルファベットに躓きかけたが、その頃から私は家の古いパソコンで物語を考えて書くようになっていたため自然にアルファベットを覚えることができた。物語の世界は、聞くものから読むもの、そして作るものへと私の体に染みこんでいた。

 高校時代には、演劇部に入部し、沢山の脚本を書いた。いくつか資格も取り、時にはコンテストで入賞するなど生き生きとした学校ライフを送り、もう誰も私の事をグレーだなんて言わなかった。言の葉の世界の色に染まってゆくように私の人生はグレーから鮮やかに色づきはじめていた。

 社会人になってからも、休みの日には物語を考え時には投稿していた。古本屋と近所の書店に足を運び、沢山の本に出合った。さくらももこ先生の『ももこのいきもの図鑑』で初めてエッセイというジャンルに出合った。さくら先生も綴るエッセイはコミカルでテンポがよく、沢山の生き物に触れながら別れを繰り替えしていくその一冊の締めくくりに「死にもの図鑑」になってしまったと語る最後で締めくくるという衝撃的なエッセイデビューの一冊となった。

 なんて自由なんだ。エッセイに無限の可能性を感じた私はその日からエッセイを書く日々が幕を挙げた。エッセイ公募があればかたっぱしから応募した。結果はどうあれ自分自身が歩くネタの塊のようで書きたいことはどんどん膨らんでいた。

 

 とあるエッセイ公募で初めて賞に入り、5万円が振り込まれたあの日。

 私は、今まで生きてきた中で一番幸せだと心の底から思った。

 

 その後も私の日常はつつがなく過ぎていた。会社に行き、本を読み、帰宅すれば物語を考える、そんな具合でさして特別な事は起こらず日々は淡々と過ぎてゆく。

 途中、結婚、妊娠というビッグイベントを挟みつつも、つつがなく産休に入るまで徐々に膨らんでいくお腹とともに仕事に精を出し、やはり物語を紡いでいた。産休に入ってからは、ようやく親心というものが芽生えてきて我が子のためにせっせと絵本作りに励んでいる。

 絵本、脚本、エッセイと様々な分野に触れながらも今、子のために絵本を作っている自分を見るとなんだか不思議に思う。

 灰色だった子供時代。

 自分の名が一字入った「萌黄色」という色がある。「萌黄色」とは、芽吹いたばかりの鮮やかな黄緑色だ。新芽が芽吹く春生まれらしい名前なのだが、私は小さい頃はこの名前が苦手だった。グレーと言われたあの日から。

 

 しかし、グレーから生まれた新芽もここにある。

 私らしいその色でこれからはじまる新しい人生はどんな風に彩られてゆくのだろうか。

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