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『父のインクつぼ』 _読書エッセイ

優秀賞

『父のインクつぼ』

高島緑

 私が幼少期を過ごした昭和三十年代、高知県境に近い故郷奥伊予の山村には本屋など一軒もなく、絵本を買って貰った記憶もない。

 初めて本というものを手にしたのは五歳くらいの時だったと思う。

 「嬢ちゃん、ご本あげようか」

 隣は小さな医院だった。低い垣根の向こうで 手水 (ちょうず) を使いながら、あごに白い髭をたくわえたおじいさん先生が声をかけて下さった。そして、その日の夕方、お手伝いさんが何冊もの本を持ってこられた。

 それは、大きくなった坊ちゃんたちが小さい頃に読み古した児童書だった。漢字が少し混じっているそれらの本は、幼い私には難しすぎたが、中に一冊、きわだって美しい表紙の本があった。

 赤や青の強烈な色彩をバックに、白いターバンを頭に巻いた男の人が描かれていた。本のタイトルは『アラビアンナイト』。母が教えてくれた。

 私はいっぺんでその本が気に入り、どこへ行くにも提げて出掛けた。本を開いては美しい挿し絵を飽かず眺め、漢字をよけてひらがなだけを拾って読んでいた。内容はよくわからなかったが、その本を手にしていることがうれしかった。

 そんなある日、親戚の人たちもやってきて、庭でにぎやかに脱穀作業が行われていた。足踏み脱穀機の音が止むと休憩だ。作業中、家の中に閉じ込められていた私は急いで本を持って表に出た。そして、一服する大人たちのそばに行き、いつものように本を開いていると、若い叔父がのぞき込んで言った。

 「ほう、何が書いてありゃ」

 「わからん。字、知らんけん不自由な」

 叔父の顔を見上げて私がそう答えると、まわりの大人たちがどっと笑った。

 「そうかや、不自由なかや」

 「字知らんけん、不自由なわいのう」

 口々に私の言葉を復唱しながら笑う。(何でみんな笑うんじゃろ)私が半ベソをかくと、それを見てまたみんなが笑う。

 その晩、父が私を呼んで言った。

 「本を持ってきてみよ」

 板敷きの茶の間の隅には古い文机が置かれていた。夕飯が済むと父は毎晩、その机で農事日誌をつけるのが日課だった。その晩も、茶色の縞模様の丹前を羽織って、いつものように机の前に座っていた。

 私から本を受け取ると、父は黙ってペンをとり、裸電球の灯りの下で漢字にふりがなを打ち始めた。青いインクつぼにペン先を浸しては漢字の横に小さくひらがなを打ってゆく。ところが、その文字の色がなぜか薄青くて、所々にじんでいる。不思議だなあと思いながらも、熱心に作業を続ける父に尋ねることはできなかった。

 そのインクが、貧しさゆえに水で薄めたものであったことを、母から聞いて初めて知ったのは中学生になった頃だった。

 大事なそのインクを使い、父が打ってくれたふりがなのおかげで、私はやがて『アラビアンナイト』が読めるようになった。本の中には「アラジンと魔法のランプ」や「空とぶじゅうたん」などの物語が収められていた。

 見知らぬ異国の不思議な話に、私は夢中になった。

 その頃両親は、私と小さな弟を連れて、杉の苗の植林作業に遠くの山へよく出掛けていた。山に着くと父は、決まって私と弟を緩やかな斜面にある暖かな陽だまりで遊ばせた。そこで私は、仕事をする父に聞こえるように大きな声を張り上げて本を読んだ。

 ところが、無口で子どもの扱いにも不器用な父は、相づちを打つでもなく、ほめるでもなく、ただ黙って聞くばかり。でも私は満足だった。物語が読めるようになったことがうれしくてたまらなかった。

 来る日も来る日も汚れた野良着姿で牛を飼い、山や田畑の仕事に精を出し、生涯を農に捧げた父。十八歳で故郷を離れた私にとって父と過ごした日々は少ない。そのせいだろうか、思い出は歳月がたつほどにだんだん色鮮やかによみがえってくる。

 あの晩、机に向かっていた亡き父の丹前姿の背中を思い出すたびに、薄青くにじんだインクの文字が記憶の底から懐かしく浮かび上がってくる。

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