• 家の光協会が開催する
  • さまざまなコンテストや
  • 地域に読書の輪を広げる
  • ための講座等を紹介します

一般社団法人 家の光協会は、
JAグループの出版文化団体です。

『ハテルマシキナ』に思いを寄せて _読書エッセイ

佳作

『ハテルマシキナ』に思いを寄せて

高橋喜和(たかはし・よしかず)・長野県・68歳

 長野県に住んで四十年になる。この地で市役所に入所し定年まで勤めた。緑豊かな安曇野に家まで建てた。これだけ長く住んでいるのに地の人になり切っていない。それどころか郷里の沖縄石垣島への思いはつのるばかりで、沖縄に関する本があれば何でも買い求めて読んだ。そんな中、少年長編叙事詩『ハテルマシキナ』に出合った。ハテルマとは郷里石垣の南西に位置する波照間島のことである。シキナは人名で、私が石垣中学校に在籍した時の校長、識名信升(しきな・しんしょう)先生その人のことだった。あの校長先生に何が……。私は新聞紙面の解説文を読んで胸騒ぎがした。何十年時が流れても私は識名先生を忘れない。それには訳がある。
 私は母子家庭で育ち、経済的な理由で島の高校への進学を諦めた。大阪の自動車整備工場に就職し、そこから定時制高校へ通った。中学を卒業したばかりの私は大阪の生活が中々馴染めず、郷里石垣を思い出す日々が続いていた。そんなある日私の職場に、識名先生が前触れもなくやって来た。
「東京に出張があったから帰りに様子を見に来たさぁ、元気そうだな」
 白い開襟シャツ姿の識名先生は、油まみれの私を見て開口一番そう言った。懐かしい石垣の訛りがあった。当時石垣中学校は生徒千五百名を有するマンモス校だった。その学校の校長先生が東京出張の帰りに、大阪へ本土就職した卒業生に会いに来てくれたのである。驚いた、そして嬉しかった。勇気も元気もいただいた。その後私は無事定時制高校を卒業することができた。
 新聞で知った『ハテルマシキナ』は書店になく、出版社から取り寄せた。本は児童が読みやすいように優しい文で書かれていたが、内容は衝撃的なものだった。
 戦時中、識名先生は波照間国民学校の校長先生をされていた。この平和で豊かな波照間島に、本土から一人の教師が赴任したことから悲劇が始まる。山下と名乗る若き教師は優しくて子供たちに慕われていた。しかし、ある日突然軍服に着替え、凛々しい軍人姿で皆の前へ現れる。豹変した山下兵曹は高圧的な態度で、千五百人の全島民に、隣の西表島(いりおもてじま)へ移住を命じた。それが何を意味するか解るので島民は猛反対した。西表は波照間と違い、湿地帯がありマラリヤ発生の地である。しかし山下兵曹は抜刀して脅し、島民を強制疎開させた。移住に際し、島の牛馬ヤギ鶏等全てを処分させている。敵が上陸した時食料にならないようにと言う理由だが、実際には石垣島守備隊の食料として使われている。西表の南風見(はえみ)に着いた島民は家もなく、木や葉っぱで雨風をしのぐ小屋を造り生活を始めた。案の定、マラリヤが発症し死亡者が続出した。山下兵曹は識名先生が始めた青空の下での授業も中止させた。高圧的で理不尽な命令は終戦後も続いた。思い余った識名先生は石垣島の本部隊に帰島を願いに行こうとしたが、山下兵曹は抜刀してそれを許さなかった。しかし識名先生は「殺すなら殺しなさい」と言って抵抗した。他の島民も一緒に行動した。山下兵曹は識名先生と島民の怒りの前に尻込みし、どこかへ立ち去った。私は読んでいて、あの小柄で物静かな識名先生のどこにそのような勇気があるのだろうと一瞬考えた。しかし直ぐ納得する答えが出た。識名先生の勇気ある行動は、人を思う優しさから来ていると思った。私の中では、本土就職生を訪ねて励ましてくれた識名先生と、抜刀して怒る山下兵曹に立ち向かう識名先生は完全に一致している。識名先生は本当の正義とは何か優しさとは何かを私に教えてくれた。
 波照間への帰島が始まったが島民のほとんどがマラリヤに感染し、結果的に米軍の弾丸を受けることもなく島民五百人が犠牲となった。三人に一人が亡くなっている。国民学校の児童も六十六人が犠牲になった。識名先生自身もお子さんを亡くされている。人一倍優しい方だけに無念の気持ちも強かったのだろう。識名先生は帰島の際、全ての思いを込めて南風見の海岸の岩に「忘勿石ハテルマシキナ」(この石忘れるなかれ)と刻んだ。
周辺の島々では、山川、山本、山里と言う兵士がいて同様のことが起こり、マラリヤで三千六百人の命が奪われた。
 波照間島に再び平和が訪れたが、あの忌まわしい体験が島民の脳裏から消えることはない。波照間小学校では、犠牲になった六十六人の児童の事を『星になった子供たち』と言う歌にして語り継いでいると言う。
 その後私は事あるごとに、識名先生の勇気ある行動と波照間島で起きた悲惨なマラリヤの話をしている。『ハテルマシキナ』を、市職員として勤務した小学校へも寄贈し、生徒や先生に読んでもらった。感想を寄せてくれる先生が何人もいた。自分の事のように嬉しかった。私のバックボーンに識名先生がいる。
 私は識名先生を一生忘れない。

ページトップへ