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ふたりは曾祖母とひ孫 _読書エッセイ

佳作

ふたりは曾祖母とひ孫

髙森美由紀・青森県・31歳

 曾祖母の自慢は、学校へ行かなくてもひらがなを読めることだった。
 私が小学校低学年のとき、宿題には、国語の教科書を音読することが課されていた。家族の誰かに聞かせてサインをもらってくること。
 忙しい両親だったため、いつも曾祖母が相手だった。曾祖母は針仕事をしたり、菜っ葉を選り分けたり、洗濯物を畳んだりしながらふんふん、と聞いてくれ、終わるとサインをしてくれた。
『とら』
 その二文字を書くのに心魂一徹の念と力を込めた。鉛筆を信用していないんじゃないかってぐらい、爪を白くさせて握りしめ、紙に穴を開けんばかりの筆圧だった。とても慎重に、時間をかけて書き上げる。私もついつい、息を殺して覗き込んでいた。書き終わると一仕事したかのような熱いため息を吐き、眉を上げ、目を細めて自分の名前をとっくりと眺めた。
 満足のいく仕上がりだと頷き、不満だと消しゴムで消して何度でも書き直した。
 曾祖母はサインをするのが楽しみなようだった。
 アーノルド・ローベル『ふたりはともだち』。
 誰かからの手紙を待ちわびるガマくんに、カエルくんが手紙を書いて、かたつむりに配達してもらおうとする。カエルくんの方が手紙より先にガマくんちに着き、ガマくんに出した手紙の内容を伝える。手紙は四日後に届けられるが、その間、ふたりは幸せな気持ちで手紙を待ち続けるのだ。
 教科書に載っているお話は私にとって算数の文章問題と同じくらい退屈なものだったが、珍しくこのお話が気に入り、曾祖母に私たちも手紙をやりとりしようと提案した。手紙はこの物語に出てくるようにふたりが親友である証のように思え、何が何でもしなくちゃならないものだと思ったのだ。
 私はほぼ毎日折り紙に手紙を書いては、曾祖母の不在を見計らって、彼女の部屋の座卓にのせておいた。
「おばあちゃん、おげんきですか」「きゅうしょくにはんばーぐがでたよ」
 そういったたわいのない、わざわざ手紙にしなくても口で伝えればいいようなものまで手紙にした。
 しかし、曾祖母からの返事はなく、私は不満だった。
「おへんじまってます。つくえのうえにのせておいてください」
 そう書いても一向に、返事はなかった。
 私は堪らず、曾祖母に口を尖らせて抗議したが、彼女は眉を八の字にして心底申し訳なさそうに身を竦(すく)めるだけだった。返事が来ないのは至極つまらなく虚しくて、私はやめてしまった。
 思えば、私は自己中心なガマくんと同じだった。
 やがて進級するにつれ、音読もなくなり、私は部活や交友で忙しくなり、曾祖母とふれ合うのは極端に減っていった。
 曾祖母はだんだん小さくなっていって、その存在も私の中でどんどん小さく、薄くなっていった。
 亡くなったのは私が中一のときだった。初盆のために片付けをしていたところ、和箪笥の引き戸の奥に蓋の浮いたそうめんの木箱を見つけた。中には湿気でヨレ、シミの浮いた折り紙がびっしり詰まっていた。
「おばあちゃん、おげんきですか」「きゅうしょくにはんばーぐがでたよ」「おへんじまってます。つくえのうえにのせておいてください」
 私のへたくそな字。そしてその終わりには、
『とら』
 筆圧の強い、渾身のサイン。全てに入れられてあった。
 ああ・・・・・・・・。
 喉が、レモンを飲んだように締め付けられた。後悔とか、感謝とか、懐かしさなどが、混ざり合って波のように押し寄せ、私をすっぽり飲み込んだ。
 ぬくい涙がだらだらと溢れた。曾祖母の死を学校で聞いたときより、死に顔を見たときより、お棺が燃やされたときより、いっとう泣いた。
 曾祖母の自慢は学校を出てなくてもひらがなを読めること。唯一書けるのは自分の名前だった。

 ガマくんはカエルくんに返事を出しただろうか。
 私はもらったよ。四日どころか何年もたったけど。
 私たちは曾祖母とひ孫で、それで大のともだちだった。

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