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『八階の小さな書店』 _読書エッセイ

優秀賞

『八階の小さな書店』

山田光子・東京都・60歳

 長い机の上に本や冊子を並べていると、小さな書店の店主になったような気分になる。国内外の童話あり、偉人伝あり、文豪の名作あり、そして現代の人気作家の小説あり。ジャンルも年代も、日本語の難易度も厚さも、さまざまなものが、「選んで、選んで」と言わんばかりに、その時を待っている。

 開始時間になると、学生たちがずらり並んだ本から一冊を選んで、自分の席に戻っていく。そこからは、静かで穏やかな時間が流れていくだけだ。学生たちの「見守り」を課せられた私も、いつもの授業よりリラックスしながら、自分が選んだ本のページをめくる。

 ここは、都内の日本語学校。八階建て校舎の最上階にある教室は、いつもなら二つに仕切っているパーテーションを取り外して、広々とした空間ができていた。窓もバーンと開け放ち、爽やかな風が行き交っている。

 あまりに平穏で、目の前に学生たちがいなければ、授業であることも忘れてしまいそうだ。が、これはれっきとした授業である。

 私が非常勤教師として働く日本語学校では、週二回、各九十分の「選択授業」という時間を設けている。学生の所属クラスとは関係なく、いくつかのメニューから自由に一つ選べるのである。これが学生になかなか好評だ。

 その多くは留学生にとって大切な「日本語能力試験」「日本留学試験」といった試験対策講座や、日本での就職希望者のための「ビジネス会話」といったもの。私もそれまでは試験対策を担当することが多かったのだが、四年前の春に初めて、「今期は多読をお願いします」と教務から声がかかった。

 そもそも、多読とは何か。読んで字のごとく「たくさん読む」のはわかるが、恥ずかしながら、その時に初めて四つのルールを知った。一、易しいものから読み始めること。二、辞書やスマホは使わないこと。三、わからない言葉があっても、そのまま読み進めること。四、読み始めて先に進まなくなったら、すぐに他の本に替えること。以上、四つを心に留めておけば、あとは自由だ。

 私は本の文字を視線でなぞりながら、学生たちにも目を向ける。二十人ちょっとの学生たちは大きく二つのタイプに分かれる。一つは、純粋に日本語で書かれた「教科書以外の本」が読みたいと思って参加している学生。幸い、多くはこのタイプだ。そして、もう一つは、この授業ならラクそうだ、他のことをやっていても大丈夫だろう、という見え見えの目論見をもって参加している学生だ。

 とりあえず、出席はするが、明らかに読んでいるフリをしている者や、堂々とスマホをいじっている者もいる。教師としては、とりあえず一度は軽く注意するが、それ以上は言わない。多読は「読みたい」と自身が思わなければ意味がなく、「読みたい」と思う学生のための時間を壊したくないからだ。

 当然ながら、漢字圏の学生は意味を理解するのが早い。一方で、非漢字圏の学生は、読み進めるのに概ね時間がかかりがちだ。その分、彼らの、時に目を輝かせながら、時に眉間にシワを寄せながら目の前の本と向き合う姿に嬉しくなる。「多読」の趣旨とは少しズレてしまうかもしれない。だが、たとえ時間をかけても「読み終えた」という自信は、きっと次へのステップになるはずだからだ。

 授業が終わると、学生たちの読んでいた本を回収して、小さな書店は「店じまい」となる。しかし、教師にはもう一つ仕事がある。学生たちにその日の「感想」を書いてもらい、それにコメントを添えるのだ。

 感想といっても長さは自由である。スマホをいじっていた学生は「おもしろかった」で終わり。その一方で、小さな字でびっしりと、その作品への思いを書いてくる学生もいた。「今日は全部読めなかったので、来週また読みます」と書いている学生もいた。また、「私は東野圭吾の作品が好きです」と、好きな作家への熱い思いをしたためる学生もいた。それは、まるで学生との交換日記だ。

 早いもので、あれから四年半の月日が過ぎた。この間、新型コロナウイルスによって日本語業界は大打撃を受け、暗く不安な状況が長く続いた。入国規制により留学生が来日できず、いつそれが叶うかも見えない日々。オンラインで授業が行われたが、対面授業と比べれば不便さは拭えない。学生の「いつ日本に行けますか」という質問に答えられないことが、教師として辛く、もどかしかった。

 そんな時、ふと多読の時間を思い出した。
あの頃は気がつかなかったが、学生たちと同じ空間で、「共に好きなものを読む」という時間が、いかに贅沢だったことか。そして何より、学生たちと当たり前に日々会えることが、どんなに幸せなことかを知った。

 この春から、ようやく留学生の入国が許可され、対面授業も可能になった。学校に学生の笑顔も戻ってきた。私は、また、小さな書店がオープンできる日を心待ちにしている。

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