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「母と私の最高の一日」 _読書エッセイ

佳作

『母と私の最高の一日』

吉田恵利子

 初夏の風を頰に感じながら私は、車椅子をぎしぎしと押した。

 「お母さん、こっちに行ってみる?」

 木綿の帽子を被る母は普段よりも穏やかに見えた。入院して約半年になる。病室で過ごす時間が長くなると物憂げにふさぎ込むこともあった。母の心を解きほぐそうと病院から外出許可をもらったのだった。

 坂道を上って細い道を入ると、山小屋風の家があった。門は開けられ、マーガレットの白い花が風に揺れていた。マーガレットの小径は門から中庭まで続いており、紫色の都わすれも咲いている。母の好きな花だ。

 「もっと近くで見てみたい」

 「だめよ。他人の家だもの」

 「いいじゃない。ちょっとだけだよ」

 母は一度言い出すと聞かないところがある。私は根負けして車椅子を少しだけ押した。中庭には鉄製の白いテーブルと椅子が置かれ、小柄な老婦人が視線を落として座っているのが見えた。ふと老婦人が顔を上げ、ゆっくりとこちらを見た。

 「すみません、お庭が素敵だったものですから」私が謝ると、老婦人は微笑んだ。「いいんですよ。どうぞ中庭もご覧になって」

 その言葉に甘えて歩を進めると、テーブルに絵本が数冊置いてあるのが目に留まる。

 「絵本お好きですか?」と老婦人が尋ねる。「はい、大好きなんです!」

 思わず私は一冊を手に取った。『おかえり くまくん』という絵本だ。表紙には、茶色のくまのぬいぐるみとおもちゃたちが優しげなタッチで描かれている。

 「よろしければ読んで差し上げましょうか?」

 「えっ?」私はびっくりした。

 「わたし、ボランティアで読み聞かせをしているんですよ。今も読み聞かせの練習をしていたところなんです」

 「わあ、ぜひ聞きたいわあ」

 車椅子の母の顔が一瞬、ぱっと輝く。

 はつ江さんという老婦人は、声色を変え、抑揚をつけて語り出した。くまのぬいぐるみを公園に置き忘れた女の子の心情や、ベンチに置いてけぼりのくまくんの心細さを、ていねいに心を込めて。

 女の子のお母さんがくまくんを迎えにきた場面で、母は涙をうるませていた。ストーリーに引き込まれ、感情豊かに表情を変える母に、私は驚いた。それは、はつ江さんの語りの上手さの賜物であるように思えた。

 「もっと聞かせて!」と心はずませる母を見て、はつ江さんはもう二冊読んでくれた。

 中庭には初夏の木漏れ日が降り注ぎ、卯の花の甘く爽やかな香りに包まれていた。こんなに満ち足りた時間を過ごせるなど、到底想像もしていなかった。

 楽しい時間を過ごせたとお礼をいうと、「喜んでもらって嬉しいわ。夫が亡くなって長いこと一人暮らしなのよ。今日は思いがけず素敵なお客さんに出会えて、こちらこそ楽しかった」と微笑むはつ江さん。澄んだ瞳のはしに涙が光っているようにも見えた。

 「品がよくて優しい人だったねえ」「こんなに楽しかったのはいつぶりかねえ」

 帰り道、母は感動の余韻に浸っているようだった。その一方で、「一人暮らしは心細いだろうねえ」ぽつりとつぶやく。

 別れ際のはつ江さんの伏せた瞳は、私の目にも少しだけ寂しそうに映った。

 「お母さん、また今度、訪ねてみようよ」

 実のところ、物語の世界を一番堪能していたのは私かもしれない。彼女の心のこもった朗読をまた聞きたいと思った。

 その夏は猛暑続きで、母の具合も思わしくなく、外出できない日が続いた。私は図書館で絵本を借りて、病室の母に読み聞かせをした。はつ江さんのように上手ではないが、それでも母は「面白いねえ」と喜んでくれた。

 人が喜んでくれるのがこんなにも嬉しいなんて。正直言うと、それまでの私は病院通いが少し憂うつだった。でも、絵本を朗読するという目的ができた。母に会うのが一層楽しみになった。母から物憂げな表情が消え、瞳が輝くようになった。私の中に母を理解しようとする気持ちが芽生え、母との距離が縮まった。何より、絵本を読むことで、私自身も癒やされていくのだった。

 「お母さん、こっちだったよね?」

 秋晴れの午後、私は力いっぱい車椅子を押す。坂道でも足取りは軽やかだ。細い道を入る。母は頰を紅潮させていた。門から中庭までの小径は、可憐なコスモスの花がふうわり風に揺れている。胸の鼓動が早くなる。母と私のことを覚えているだろうか。

 「いらっしゃい」ふいに後ろから声をかけられた。「どうぞ、お待ちしていたのよ」はつ江さんは胸にたくさんの絵本を抱えている。母と私は互いに目を見合わせて微笑んだ。

 「今日は最高の一日になるね!」と。

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