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「 図書館通いの向こうに」 _読書エッセイ

佳作

『図書館通いの向こうに』

宗政由美子

 私は本をほとんど読まない、というより本を読むことが苦手だ。幼い頃から読書とは無縁だった。二歳の頃、父が大病を患い、長い間入院していて、母はその看病でほとんど家にいなかった。その間、祖母が私の面倒を見てくれていたのだが、祖母も当時は多忙で、私に絵本を読む時間などなく、私は幼い頃本を誰かに読んでもらった記憶も買ってもらった記憶もない。そんな幼少期を過ごしたためか、いつしか自分にとって本とは勉強をする時に使う教科書か参考書を意味するものになっていた。なにせ中学生の時は夏休みの宿題であった読書感想文を書くために本を読むのがおっくうで、三年間同じ本で感想文を書いたくらいである。とにかく本を読むということは私にとって苦痛に近かった。

 しかし、思春期になるとなぜか私の周りには本好きな友人が多くなり、彼らが楽しそうに読んだ本の内容を語るのを聞いていると、何か自分が損をしているような、大切なものを見落としているような気持ちになった。何度か自分から本を買ったり、図書館で借りたりして読んでみたのだが、それでもなぜか楽しさは感じられなかった。そして、次第に読書をするということから手を引いてしまったのである。

 その後、結婚して息子を一人持った。子育てを始めた時、まず思ったことの一つが「この子には本を読んでやろう」ということであった。きっと幼い頃から本に親しめば読書の喜びがわかる人になる、そうなって欲しい、と自分の子供の頃に足りなかった何かを埋め合わせたい気持ちだったのだと思う。その頃、住んでいた家の近くに、運良く立派な図書館が建設中で、子供のための書籍コーナーも充実していると聞いた。そして、息子が幼稚園に上がる頃から毎週日曜日にはその図書館に行くことが習慣となった。

 さて、息子を連れて行ったものの初めの頃はどんな本をどう息子に勧めてやったらいいのか、どんな本を読んでやったら喜ぶのか、さっぱりわからない。第一、自分は本に興味がないし、図書館というところは私にとってたくさんの本に囲まれるという若干居心地の悪い場所だ。困っていると、図書館内で「お話の会」なる読み聞かせの時間があることに気がついた。今でもよく覚えているが、その会で読み聞かせをしてくださる方々は本当に子供へのお話がお上手で、一緒に聞いていて私も十分楽しめた。そこで、お話の会で読まれた本を借りてきて、家でその本をもう一度息子に私が読んでやるのはどうだろうと思いついた。読み聞かせの会で選ばれて読まれている本なのだから内容も良いものであろうと思ったし、自分も一度そこで聞いているから家で読んでやることもあまり難しくないだろうと考えたのだ。最初は紙芝居から始まり、地方の民話、息子の好きな冒険譚などと読み進めていった。すると、それを繰り返しているうちに、息子の方から「今度はこんな本が読みたい、次はこの本の続編を読んで欲しい」と言ってくるようになったのである。ほんの少しのヒントを与えると子供は自分の好きな本がわかってくるものなのかと感心した。そればかりではなかった。次第に息子は本の中に出てくる言葉でまだみたことのないものに興味を持ち、「森と林と山は同じなの? 滝はどこへ行くと見られるの? 動物園の動物は本当はどこに住んでいるの?」と質問が次から次へと出てきたのである。やがて本を通じての関心事は、年齢と共に音楽や絵画、さらには外国への興味へと広がっていき、その想像力と発想力には親として驚くばかりであった。

 そんな図書館通いを何年続けたであろう。現在二十七歳の息子は本に囲まれ、大学で文学の研究をしている。私は相変わらず本とは縁がないが、私が味わえなかった本の楽しさというものを息子が知ってくれたことに喜びを感じている。本というのは子供に様々なことへの興味を持たせ、好奇心と研究心を植えつけ、さらにそれを芽生えさせてくれるものなのかもしれない。少なくとも息子の場合はそうであった。息子は私が本を読むことが苦手なのを今はよく知っていて「よく毎週僕を図書館へ連れて行ったね」と苦笑している。そして、自分が読んだ本で面白いものがあると内容を掻い摘んで話してくれることがある。息子曰く「お母さんにわかるようにまとめて話すのは難しい」などと言いながらも、そんな時は聞いている私も楽しいし、話している本人は生き生きしているように見える。時々、あの辛かった図書館通いが懐かしく思い出され、親として少しはいいことをしてやれたのかな、とふと思ったりする。

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