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「姉が教えた貸本屋」 _読書エッセイ

佳作

『姉が教えた貸本屋』

中村実千代・栃木県・65歳

 小学校一年生の春に、学校からの帰り道で道路を渡ろうとしたら、バイクにはねられた。
 傷は出血の割には大したことは無かったが、そののち、事故に遭った道路を渡れなくなった。向こう側に私の家があるから、どんなことをしても渡らなければならないのだが……。
 店中で客にお愛想を振り撒いている父母の顔は見えるが、私が叫ぶ「お父ちゃん」の声は届かない。「一人で渡れなかったら、お父ちゃんを呼ぶんだぞ」と、頼もしく言ってくれた父はそっぽを向いている。とうとう、べそをかき始めたら、見かねた真向かいのおじさんが渡らせてくれた。
 父母や近所の人たちを騒がせてもなお、道路が渡れない冬のことだった。
 十歳違いの姉が、「いいところへ連れて行ってやる」と言って私の手を握り、すたすたと道路を渡って南へ歩き、細い小路へ入って行った。小路の両側には、小さな店が点在していた。姉は、その中の平屋建ての店のガラス戸を開けた。
 開けた途端に、インクの香りが私のからだを包む。目を上げると、壁一面にぎっしりと本が並んでいた。見たこともない世界だった。
 姉は、「好きな本を選んでいいわよ。借りられるのよ」と言って私の背中をそっと押した。ワクワクする胸を押さえながら、私はリスのように小走りに歩き回り、二冊の本を選んだ。
 店の北側に小さなカウンターがあって、そこに眼鏡を掛けた女の人が座っている。姉に促されて借りたい本をその人に渡すと、古ぼけた分厚い大学ノートを開き鉛筆を握った。
 横罫のノートには縦に何本も線が引かれ、彼女はそこに、本の題名や背表紙に書かれている番号を書き入れた。「借りた日」と「返す日」を記入し最後のほうの欄を示し、私にノートを向けて「お名前を書いてください」と、落ち着いた声で言った。
 姉をふり返ると、「もう一年生なんだから書けるでしょう」とやさしく微笑む。罫線からはみ出した文字が嬉し気に踊っていた。
「約束の日に返していただいたら、ここに判子を押しますからね」覗き込むと、署名欄の隣に、朱色の「済」という四角い印が縦に並んでいた。
 母にもらった小遣いから四十円を支払って店を出ると、姉は「返す時は一人で行くのよ」と言って、なぜかニヤッと笑った。
 借りた本は、一冊は漫画で、もう一冊は『イソップ物語』。私は夢中で読み耽った。漫画は、勇敢な王子が敵を倒し美しい姫を救い出す、夢のような冒険物語だった。
 三日経つと返却日になった。この本を返したなら次の本を借りたい、小遣いも六十円あるから三冊は借りられる。そう考えるが、一人では道路が渡れない。
 姉も兄も留守で、父母は店が立て込んでいて忙しい。外には夕暮れが近付き、近所からは魚を焼く匂いが漂ってくる。約束をしたのだから、どんなことをしても今日中に返さなければならない、もたもたしていると貸本屋は閉まってしまう。
 私は本を抱えると走り出した。道路脇に止まって慎重に左右を確認し、足を出した。猛スピードで渡り切り大きく深呼吸をする。
 薄暮の中に、貸本屋から漏れてくるささやかな明かりが、人気のない小路をかすかに照らしていた。
 おずおずとガラス戸を開けると、カウンターの中から女の人の微笑みがこぼれた。「ごめんなさい、遅くなっちゃったの」。約束を守れたことが嬉しくて、私も笑った。
 それからは、毎日のように貸本屋へ通い本を借りて、さまざまな本と出合った。漫画が多かったが、だんだんと物語の魅力に引き込まれ、活字だけの長い文章を好むようになった。
 貸本屋で借りた本を読むことで、さまざまな物語の世界に出合え、知らない言葉や漢字を知らず知らずに覚えた。一人で楽しむ術を身に付けたことも、生きていくのに大きな支えとなった。
 何より、返す日の約束を守ることで、人の信頼に応えることを自然に学んだ。あとひとつ、姉の策略に見事にはまって、道路を渡れるようになったことも外せないだろう。

先日、あの貸本屋が懐かしくて小路へ行ってみた。そこは広い駐車場になっていて、軽トラックが一台、屋根に日の光をはね返して停まっていた。
 もし、あの貸本屋がまだあったなら、眼が不自由になった姉に、好きな本を借りて読み聞かせてやりたかった。姉は、読書の楽しさを教えてくれ、生涯に渡る生きがいを与えてくれたのだから……。
 姉は、あの時の貸本屋の懐かしいインクの香りを、いまでも覚えているだろうか。

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