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「あの頃の君へ」 _読書エッセイ

家の光読書エッセイ賞

『あの頃の君へ』

秋山徹・静岡県・59歳

 小学生の頃の君は、ズル休みばかりしていたね。
 月に一回は必ずズル休みをしていた。仮病ってやつだ。
 頭が痛い。熱っぽい。おなかが痛い。先ずは元気のない声で、それらしく母親に訴える。おでこに手を当てられ、アッカンベーをされ、そして水銀の体温計が渡される。
 そこからの君は見事だった。布団の中で体温計を逆に振ったり、毛布で擦ってみたり、目盛が上がり過ぎたら振って戻してみたり、君は本当に手際よかった。
 目標は三七度。高すぎず低すぎずの、仮病にはもってこいの数字だ。体温計が割れて、中の水銀がコロコロと転げて大騒ぎになったこともあったけれど、そんな失敗も一度だけだった。
 母親が体温計の目盛を見る。君の仮病に気が付いていたかもしれない。それでも心配してくれていたんだろう、何も言わずに学校へと電話を入れてくれた。
 「おとなしく布団で寝てなさい」と言って彼女が襖を閉めれば、ミッションは完了だった。

 学校が嫌いだったわけではないと思うんだ。仲のいい友達だっていたし、テストだって頑張っていた。脱脂粉乳は鼻をつまんで飲んでいたけれど、そんな理由で君はズル休みなんかしないだろう。

 本を読むために、君はズル休みをしていたんだ。学校を休んでも、布団の中で本を読むことは、誰も何も言わなかったからね。
 せがんで買ってもらった「世界の文学」は全部で三十巻だった。それは毎月1冊ずつ、お米屋さんから届けられていた。君のズル休みは、いつも本が届いた翌日だった。
 それを端から端まで、何度も何度も、よく飽きもせず読んでいたなって感心するよ。

 それからも、君の本好きはずっと続いていたからなぁ。中学生の時に貰っていたお昼のパン代で、文庫本が二冊も買えた。大学時代のバイト代も、食べることよりも読むことに使っていた。お腹が空いても本を買っていた。片っ端から文庫本を読み漁り、古本屋街をハシゴしては、お気に入りの作家の全集を探して歩き回っていた。君はいつも本と一緒だった。

 そんな「あの頃の君」には、「今の私」のことは想像できなかっただろう。

 私は三年前に脳梗塞に倒れてしまった。
 後遺症として右同名半盲が診断された。右側の視界に見えないところが出来たんだ。正面を十二時とすれば、一時から二時の方向だ。
 「回復の見込みはないですよ」って医者はあっさりと言った。そして「慣れるしかないですね」と言葉を足した。

 私は本を読まなくなった。本を読むことが苦痛になってしまったんだ。
 どうだ。君には信じられないだろう。
 横書きの文章ならば、どうにか文字を追いかけることも出来るが、長時間は無理なんだ。縦書きの文章はもっと辛い。次の行へと移る時に、どうしても行を読み間違えてしまう。話の辻褄が合わなくなる。それを何度も繰り返しては、手にした本を床に叩きつけてしまうことも何度かあったよ。

 私だって望んではいない。望んではいないが現実なんだ。
 あちらこちらを調べまくり、いろいろなリハビリだってやったよ。そうして普段の生活には慣れてはきたけれど、本を読むことが辛いことには変わらなかった。あの頃の元気な君が羨ましいよ。

 でも、そんな往生際の悪い私も、ようやくに諦めがついたんだ。
 本棚の本はすべて処分をした。ゴメン、あれだけ君が苦労して買った本も、もう処分してしまったよ。それからの私は、一冊も本を買ったことはない。

 そして「今の私」は、最後の悪あがきを楽しんでいる。
 布団の中に入る前には、インターネットに接続する。そして、あの頃に君も読んだいろいろな小説の朗読を、毎晩のようにして聴いているんだ。
 目を閉じて静かに朗読を聴きながら、その声を瞼の裏で活字に変えて、それをドンドンと、ドンドンと追いかけていく。
 仮病の布団の中で夢中にページをめくっていた「あの頃の君」と一緒だよ。
 何も変わっちゃいないさ。

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