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二人きりの読書会 _読書エッセイ

佳作

『二人きりの読書会』

髙田智子・滋賀県・34歳

 大学に入って初めて出来た友人を、こんなことで失くしてしまった。彼女と私は一般教養で日本文学の講義を取っていた。教授が、次週までに太宰治の『斜陽』を購読し、感想文を書いて来るよう求めた。苦学生だった私は、文庫本一冊買うのも躊躇せねばならない状況で、彼女はそのことをよく心得ていて、自分が買ったら貸してあげると言ってくれた。しかも、彼女は自分が読むより先に、私に貸してくれたのだ。彼女の口から決してそうは言わなかったが、文庫本の頁と頁がくっついていたことから、私にはそれが新品だと分かった。誰の手垢も染みもついていない薄紙をぺリぺリと丁寧に剥しながら物語をひも解いてゆくのは、まだ誰も踏みしめたことのない真っさらな雪山に足跡をつけるような心楽しさだった。読後、四つ葉のクローバーを挟んで返した。

 後日、感想文のうち、何点かが教授によって読み上げられた。私と彼女は講堂の中ほどの席で、肩を並べてそれを聞いた。

「まず、高田さんの感想を紹介します」

 私は顔を赤くしてうつむいた。

――この小説に出てくる、恋と革命に生きたかず子。これは私である。恋に猪突猛進なところがそっくりだ。作者は、どうして私のことをよく知ってるのか、思わず問いかけたくなったほどだ。かず子は出戻りの身であるにも関わらず、懲りずにまた恋をする。相手は妻子持ちの放蕩癖のある作家というから始末が悪いが、こうした男に惹かれてしまうというのは分からなくもない。やがてかず子は妊娠し、シングルマザーとしてお腹の子と生きる決意をする。格好いい。かず子には、ただ突き進むエネルギーがある。かず子は作中でこう言う。「私のことを困った女だと嘲笑する人は、女として生きてゆく努力が分からない人だ」と。この時、私は本に向かって、ひとり大きく頷いていた。私も臆せず恋をしてゆこう。そう意を強くした。

 せめて教授が書いた人の名を伏せてくれればよかったのだが、先生にはその辺の斟酌(しんしゃく)は一切なかった。

「次に、これとは正反対の感想。山本さん」

――かず子は何てバカバカしいのだろう。不倫相手の子を身ごもったけれど、相手の男に妻と別れてほしいとは迫らない。私一人で頑張って育ててゆくと宣言する。かず子は、読んでいてイライラするほど都合のいい女でしかない。あるいは、恋する自分に酔っているだけだ。作者が、この小説を、かず子が妊娠し、未婚の母になることを決意したところで終わらせているのも気に入らない。その赤ん坊が生まれ、成長するまでを描かなければ読者は納得できないのではないか。もし私が和子の娘なら、自分の出自を知って、確実にぐれる。「恋と革命に生きる」かず子が痛々しく、こちらの方が気恥しくなった。私は恋をしたことがない。しようとも思わない。恋を信じていないからだ。

 私は隣に座る親友の顔をどうしても見られなかった。自分の感想を読まれたときより頬が紅潮するのが分かった。授業が終わると、山本さんは、「それじゃあ、ね」と、困ったような顔をして私の前から去っていった。私の人生からも去っていった。彼女のように家が裕福で、美人で育ちがよくて、満たされている人は、小説など必要といていないのだ。私はそれ以来、人前で太宰が好きだと言わないようになった。

 あれから十余年、めったに顔を出さない大学の同窓会に出席した。あの頃の勇ましい決意も空しく、私は仕事に追われ、恋愛とも結婚とも無縁の毎日を過ごしていた。実務一辺倒の生活のなかで、小説を読むような贅沢な時間もままならなくなっていた。「隣、いい?」一人の女性が私の顔をのぞき込んだ。困ったような笑みは、あの時と同じだった。彼女は文庫本を開いてクローバーを見せ、「あの時は、ごめん」とますます困ったように眉を八の字にした。四つ葉は一枚も欠けずに本のなかでひっそり息づいていた。

――あの時は、かず子のこと、馬鹿な女って思ったのに、不思議ね。私、シングルマザーになっちゃった。

 結婚して間もなく、彼女の夫は不慮の事故で命を落とし、それと引き換えるように、彼女はお腹に新しい命が宿っているのを知った。まだ若いんだから、その子のことは諦めて、再婚したらという周囲の説得を振り切って、彼女は一人で子どもを産んだという。スマホを取り出し、息子さんの写真を見せてくれた。その表情はすがすがしいほどの誇りに満ちていた。

「あなたは? ちゃんと恋と革命に生きてる?」

 今度は私が困る番だ。

「この本はあなたが持っててね」

 そう言って、彼女は『斜陽』を再び私に差し出した。

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