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勝手に借りて勝手に返す _読書エッセイ

優秀賞

『勝手に借りて勝手に返す』

大刀祢小百合・石川県・25歳

 その日はとても疲れていた。いつもの事ながら仕事で上司に理不尽な説教を受け、精神的にボロボロ。帰りに美味しい物でも買って気をまぎらわせようかという気分さえなく、ヨロヨロとマンションへの道のりを歩いていた。

 見慣れた住宅街の夕飯時の灯と手作りのご飯の匂いの中、一人暮らしの私はふいに泣きたい気持ちをこらえて、バス停のベンチに座りこんだ。友達にラインで愚痴ろうか、それともこのままバスで一人街へ飲みに行ってしまおうか……。

 考えあぐねて顔を上げると、目の前の古い住宅の窓辺に貼り紙が貼ってあるのが見えた。わりと汚い字でこう書いてあった。

「勝手に借りて勝手に返す」

何のこっちゃ? 近寄って見てみると、その窓には本棚がこちらに向けて設置してあって、いろんな本がズラリと並べられている。見た所、ジャンルはバラバラで小説やマンガ本に雑誌や料理本、辞書や同人誌まである。

 「勝手に借りて勝手に返す」

……もしやと思い、窓をそっと横にひいてみた。開いた。そういうことか。この本は、勝手に借りて勝手に返していい本らしいのだ。家主の考えた小さな図書館のようなものと解釈してよいのかわからないが、まあそういう事なのだろう。

 なんだかおかしくなり、ニヤついてしまった私はそれならと本を一冊物色した。この本棚の持ち主は本の種類を見る限り、年配なのか若いのかわかりかねるが、張り紙の字を見る限り、男性であるに違いない気がした。私が選んだのは橋田壽賀子氏の『旅といっしょに生きてきた―人生を楽しむヒント』というエッセイ本。あのおしんを書いた脚本家の本だ。

 本をバッグにしまうと、窓のサッシをそっと閉め、家路に向かって歩き出した。今まで毎日この道を通っていたのに、今日初めてあの張り紙に気がついた。勝手に借りてきてしまったがいいんだよね? と多少ドキドキしながらも顔がほころんでいる自分。

 就寝前に本を開くとなかなかに面白く、自分の仕事の悩みとリンクしている内容も書かれており、すぐにひきこまれていっきに読んでしまった。あの小さな本棚の中から選んだ一冊。もしこれが大きな普通の書店や図書館だったら、この本とは出合えなかったのかもしれない。

 翌日、出勤前に本を返しにあの窓へ寄り、次の本を借りた。昨日落ち込んでいた気持ちは、まるでなかったようにふっとび、私は会社に着くと、「勝手に借りて勝手に返す」窓辺の本棚のことをみんなに話しはじめた。

「なんなのそれ」

爆笑する同僚達に本を見せ、面白いことをする人もいるもんだねと盛りあがった。

 昨日説教をしてきた上司も、ほうほうと話を聞き、

「帰り俺もそこへ連れて行ってくれ」

と言い出した。正直あまり気がすすまなかったが、その日からその上司もそこで本をちょくちょく借りるようになり、返却を時折頼まれるようになった。

 毎日のようにその窓辺本棚にお世話になるうち、いったいこの家主はどんな人なのだろうと気になってくる。その窓は家の裏にあたる窓なので玄関は表にあり、人が出入りする所はこちらからは見えない。それよりも心配なのはこうして窓のカギを毎日開けっぱなしで防犯上大丈夫なのだろうかということだ。

この本棚を押し倒せば家の中に侵入可能なのではあるまいか……。まあいろんな人がいるものだ。

 ある日、上司が返却本と一緒に数冊の本を自宅から持ってきて、本棚に入れておいてくれと言う。そして張り紙の下にこのシールを貼ってくれと。「勝手に贈呈」と書いてあった。「勝手に借りて勝手に返す。勝手に贈呈」家主がびっくりされるのではないかと思ったが、ニヤニヤが止まらない。上司に言われるままにさっそく実行。

 本が増えていることに家主がいつ気づくのか気づかないのか毎日ソワソワしながら窓辺本棚をチェックしていた私だが、もしも気を悪くされたらどうしようと不安にもなってきたある時、張り紙に文字が追加されているのを発見したのだ!

「勝手に借りて勝手に返す。勝手に贈呈。ありがとね」

なんと、ありがとねと書かれていた。心の中でガッツポーズをする私。お礼ができたと喜ぶ上司。

本を通じて思わぬ交流。私が読書ずきになったのはこの不思議な本棚のおかげである。

こちらこそありがとうと言いたい思いでいっぱいだが、いつかきっと会えると上司共々信じている。

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