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ワープのスイッチ _読書エッセイ

佳作

『ワープのスイッチ』

菱川町子・モンゴル国・74歳

 人と人の出会いには運命的なものがある。一目ぼれとかビビッときたというやつだ。私とあの本との出合いは、まさしくそれだった。『日本語教師になろう』というほとんどの人が目にもとめない地味な雑誌だ。なぜあの時あの本を手に取ったのか今でもわからない。偶然かそれとも神の導きか、いずれにしろこのマイナーな本が、その後の私の生活を天と地がひっくり返るほどに一変させたことは確かである。

 それまで私は夫と娘と犬四匹の平凡だが幸せな生活を送っていた。私も夫も教師としての仕事に追われる毎日だった。ところが一人娘を他家に嫁がせ、夫と二人だけの穏やかな生活が始まったころ、夫が突然末期癌の宣告を受けた。その看病のため、私は三十四年間務めた教師の仕事を辞めた。寝耳に水の宣告、手術、私の退職、リハビリ、と目まぐるしく変化する日々に追われているうち、夫は私に感謝の言葉を言う間も与えずあの世に旅立った。

 今まで教師、妻、母の一人三役で山のような仕事を抱える怒涛の日々から、たった一人になった。還暦を前にして、予想もしなかった独居老人の暮らしが始まった。人気のない我が家にテレビの音だけが鳴り響いている。何もすることのない暮らしに戸惑うばかりだった。天井がスッポーンと抜け、風まかせの糸の切れた凧のように彷徨う日々だった。そんな折、目にしたのがあの本だ。本の表紙に書かれた「世界に羽ばたこう」というキャッチフレーズが、心にビビッときて思わず買ってしまった。この本は国内や海外で働きたい日本語教師向けのガイド版だ。世界の各地で活躍している日本語教師の体験談が掲載されていた。異国の町で生き生きと日本語を教えている若者がまぶしかった。さらにぺージをめくると、名古屋の日本語教師養成学校の紹介もあった。名古屋なら私の家から電車で三十分足らずだ。

 気が付けば、私は入学金三十万円を握りしめ、日本語教師養成学校の門を叩いていた。簡単な試験を受け、次の週から授業を受けることになった。ここで学ぶ学生は、今の仕事に満足できず新しい可能性を模索する若者や、私のようなリタイア組、主婦などさまざまだった。

 この学校で日本語教師の資格を取ったころ、モンゴルの大学で日本語教師の募集があった。馬が好きだった私は渡りに船とばかりに飛びついた。あれから十年、今も私はモンゴルで日本語を教えている。孫は物心ついてからモンゴルで暮らしている私に、

「ばあちゃんは、モンゴル人?」

と真顔で聞く。娘は、

「とんでもないばあちゃんだね」

と言いつつ応援してくれる。しかし私は今が一番楽しい。真剣に日本語を学ぼうとするモンゴルの若者の瞳を、こちらも負けずに真正面で受け止める。時には宿題忘れの学生を𠮟ったりもする。カタコトのモンゴル語でも一生懸命教えれば心が通じる。ある日授業をしようと教室のドアを開けると、

「ハッピーバースデイ! 菱川先生―」

拍手と特大のケーキで迎えられた。日本語を学ぶ学生にとって、私は生の会話を学ぶことができる貴重な存在だ。また日本の歌を一緒に歌ったり、着物の着付けなど日本の文化も紹介している。日本にいればただのばあちゃんだが、ここではなくてはならない先生なのだ。年寄りとして労わられ、敬老の日に、

「ばあちゃん、長生きしてね」

なんて言われるよりはるかに嬉しい。人は年齢を重ねても、自分が必要とされることが生きがいなのだ。

 モンゴルは草原と馬の国だ。休日には二時間も車を走らせれば、地平線まで続く大草原に立つことができる。その地平線に向かって馬を走らせる爽快感は、何物にも代えがたい。

 もしあの時、あの本に出合わなかったら、こんなモンゴル生活を満喫できただろうか。

 今まで私は感動を求めて本を買うことが多かった。しかし『日本語教師になろう』は私に情報を提供してくれた。無意識のまま、私は新しい世界に一歩を踏み出したいと思っていたのだろう。情報はその無意識を刺激し掘り起こして、行動するエネルギーを与えてくれた。あの本は寂しい独居老人から、モンゴルで生き生きと働く日本語教師にワープするスイッチだったのだ。一瞬のうちに消えていくテレビの映像ではなく、次々と目新しいニュースを繰り出すインターネットでもない。本というじっくり考えることができる情報だったのが、よかったのだろう。

還暦をすぎてからの異国暮らし。そこは冬マイナス三〇度にもなる酷寒の地だ。文化の壁に戸惑うことも少なくない。

だが私は『日本語教師になろう』が導いてくれた今の生活を捨てるつもりはない。

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