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カナちゃんの贈り物 _読書エッセイ

佳作

カナちゃんの贈り物

南川亜樹子・徳島県・39歳

 私の勤める患者図書室には毎日年齢・性別を問わず、様々な人がやって来る。その光景は、一見普通の図書館と変わりがない。ただひとつ違うのは、ここに来る人の多くが、怪我や病を抱えた患者さん、あるいはそのご家族ということだ。入院を余儀なくされた方たちにとって読書は、ひと時、病の不安を忘れさせてくれる心の休息だ。

 私が、カナちゃんに出会ったのは、八月初旬のことだった。短く刈り上げた髪と大きな瞳が印象的で、とても小柄な女の子だった。図書室に入って来ると、消え入りそうな声で  

「小学生の本、ありますか」とつぶやいた。

 図書室の中央には、絵本や童話の本棚があり、子ども用に低めの椅子が用意されている。棚の前まで案内すると、カナちゃんはちょこんと椅子に腰掛けた。

「ああ、やっぱり。もっと小さな子向きの本しか無いみたいじゃ。ごめんよ」

 カナちゃんは、顔を赤くしてうなずいた。

 後でカナちゃんのお母さんから、彼女が、心臓手術のために、他の病院から転院して来たこと、現在小学四年生だということを聞いた。私は、そんなカナちゃんのためにと思い、自分が小学生の時に愛読していた児童書を二十冊ほど、自宅から図書室に持ち込んだ。数日後、その本の並んだ棚を見たカナちゃんは恥ずかしそうに、「ありがと」とほほ笑んだ。

 その日から、カナちゃんは頻繁に図書室に来るようになった。病室でいるより、明るい陽射しの届く図書室で過ごす方が良いだろうと、お母さんも快く見守っていた。検査の無い日は朝から夕方までいることもあった。

 毎日顔を合わすうち、次第に子どもらしい無邪気な笑顔も見られるようになった。私が準備した児童書の中で彼女が特に気に入ったのは、意外にも漢字辞典だった。小学生向けに漢字の成り立ちや、熟語の意味が物語風に分かり易く解説されており、読み物としても楽しめる内容だった。カナちゃんはその辞典を見ながら、よく漢字の練習をしていた。

「勉強しょん? 上手に書いとんでぇ」

 と褒めると、学校の漢字テストでは、いつも九十点以上なのだ、と得意気に話してくれた。

 ある日の帰り際、カウンター越しに私の名札を指刺すと、こんなことを言った。

「お姉ちゃんの名前の漢字、南川は書けるけんど、これは知らんのんじゃ」

 それは私の名前の「樹」という漢字だった。

「ちょっと難しいだろ? こう書くんじょ」

 私はメモ用紙に走り書きをし、手渡した。

「これで、アキコって読むん?」

 カナちゃんは、丸い目をさらに丸くしてその漢字を眺めていた。

 ほどなくして、心臓手術の日がやって来た。その日は、私も気持ちが落ち着かず、時間ばかり気になった。手術は七時間にも及ぶ難しいものだったらしい。そんな大手術を乗り越え、カナちゃんが再びお母さんと図書室に現れたのは、残暑の続く九月半ばのことだ。

「カナちゃん、今日はどれ読むで?」

 以前と比べて少し目の輝きが沈んだように思え、私はできるだけ明るい声で話し掛けた。カナちゃんは、いつものように本棚から漢字辞典を選び出すと、早速読み始めた。

 一時間程経ち、お母さんに「病室に戻ろう」と促されて立ち上がった姿が、あまりに弱々しく、私は胸が苦しくなった。どうしても彼女の声が聞きたくて、思わず言葉がこぼれた。

「お姉ちゃんの漢字、書けるようになった?」

 それを聞いた瞬間、カナちゃんの表情がパッと輝き、弾んだ声が返ってきた。

「うん! もう書けるんじょ。見てぇ」

 カナちゃんはメモに私の名前を書き始めた。

「南川 亜樹子」

 メモには几帳面で、力一杯の文字が並んでいた。自分の名前をこんなにも愛おしく感じたのはこの時が初めてだった。

 カナちゃんの訃報を聞いたのは、それから半月後のことだ。しばらく何を見ても色彩が感じられず、空虚な日々が続いた。空気が肌寒くなり、時節は確実に移っているのに、自分だけが夏に留まったままのようだった。

 十一月に入って間もなく、カナちゃんのお母さんが図書室に来られた。本のお礼を、とわざわざ足を運んで下さったのだ。少しの会話の後、ふいに「受け取っていただけますか」と、小さな紙切れを差し出された。私はその丁寧に畳まれた紙切れを不思議な気持ちでゆっくりと開けた。そして、思わず息を呑んだ。紙一面に所せましと並んだ「樹」や「亜」の文字が、一気に目に飛び込んで来たのだ。そこには、カナちゃんが私に見せようと懸命に練習した姿が生き生きと遺されていた。

 今、私のデスクのボードには、カナちゃんが最後に書いてくれた名前のメモと、あの紙切れが貼られている。小さな体に病を抱え、精一杯生き抜いた十年間。その心根の強さが刻まれた文字はいつも私を励ましてくれる。

「負けたらいかんじょ。亜樹子姉ちゃん!」

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