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母と本と私 _読書エッセイ

佳作

母と本と私

田中 誠・茨城県・73歳

 大正二年生まれの母は、読み書きが出来ない人だった。

 私は物心がついてからも、その事で母に対して不便や不満を感じた事もなく育った。

 私は昭和十九年に、津軽海峡に面した小さな漁村に生まれた。父は沿岸漁業の漁師で、不漁の年や雪に閉ざされる冬は、北海道へ樵として出稼ぎに出て暮らしを支えていた。    

 父が出稼ぎで家を空ける冬は、子供には寂しい季節で、子に本を読んでやることも出来ない母が、添い寝で語る津軽の昔話が、私には子守唄のようなものだった。

 吹雪が窓をならす夜に聞いた、恐怖と哀切が入り混じった『雪女』の話しは特に印象深く、今でも記憶の中に鮮やかに残っている。

 母が語る昔話のお蔭で、私が物語に興味を持つようになったのは三、四歳の頃だった。

 父は母と違って本が好きな人で、出稼ぎ先で買った本は、捨てないで持ち帰って来るので、家には『面白?楽部』などの古い娯楽雑誌が沢山あり、近所の暇な年寄り達が借りに来たりしていた。

 私はその雑誌で父から文字を教わり、小学校に上がる前に、平仮名も片仮名も読めるようになっていた。

 母の郷は、晴れた日には岩木山が望める、リンゴと稲作の農家で、内陸の遠く離れた山里の村から、どんな縁でこの漁村に嫁いで来たのか聞いたこともなかった。

 母は、男二人、女二人の四人兄弟の長女として生まれた。一番下の妹は、師範学校を出て青森で小学校の教師をしていた。読み書きが出来ない母と、この叔母との教育の違いに、子供心に何となく疑問を持つようになった。

 私が小学校に上がってから、母は父兄参観の日でも、一度も学校へ顔を出す事もなかった。読み書きが出来ない母は、学校が嫌いなのだろうと、私は勝手にそう思っていた。

 五年生の時、歳の離れた弟が生まれた。弟が出来て私は嬉しかったが、高齢出産だった母は、世間に対して恥ずかしいと言った。

 六年生の夏休みに叔母の所へ泊り、ねぶた祭りを観に行った日、従妹達が寝静まってから叔母が母の子供時代の話しをしてくれた。

 長女だった母は、下の兄弟達の子守と、家事の手伝いに明け暮れ、学校へ通う事が出来なかったと話した。

 この夜、叔母の話しを聞いて、長い間私の喉仏の奥に刺さっていた魚の小骨のような、モヤモヤした母への疑問が、ようやく解けたような気がした。

 それでも幼い頃の母の境遇を思うと、悲しかったのを覚えている。

 帰りに、叔母から小遣いを貰い、新町の本屋に立ち寄り、漫画本を捜していると『リンゴ園の少女』と言う分厚い本が目に止まった。

 この本は岩木山麓を舞台に美空ひばりが主演し、大ヒットした映画の原作本であった。

 主題歌の『リンゴ追分』も流行り、ラジオから流れて来るので、唄を覚えてしまった母は、いつもこの唄を口ずさんでいた。

 小説と映画の舞台になった、津軽平野の片隅に生まれた母の、唯一の故郷自慢は、岩木山と津軽のリンゴだったのだ。

 立ち寄った本屋で偶然見つけたこの本を、母に読み聞かせてやりたいと思い、つい私は買ってしまった。

 ラジオから流れて来るひばりの唄に魅せられた母は、この本に載っている写真で、初めて美空ひばりという少女に出会ったのだ。

 たわわに実ったリンゴの下で、ひばりが微笑んでいるページで「ひばりって、なんて、めんこい(可愛い)めらすっ子(娘)だ事……」と、本に?ずりをして言った。

 夏休みの夜、弟を寝かしつけた母にせがまれ、毎晩『リンゴ園の少女』を読み聞かせた。漢字に仮名がふってあるのでスラスラ読めた。

 物語は、岩木山麓のリンゴ園で、祖父と暮らしている「山川マルミ」と言う少女が、歌手になるまでの波乱に満ちた物語であった。

 リンゴの話が出てくる場面では、読んでいる私の口を遮り、リンゴの知識を得意げに、饒舌に語る母がいた。

 こうして、母に繰り返し読み聞かせをしているうちに、私も本が好きになり、社会に出てからも、本は私の知識の源になった。

 八年前、私の短編小説が、ある雑誌のコンテストに入選した。授賞式の帰りに立ち寄った神田の古書店で、表紙カバーも無い、茶色に変色した低価格の本の中から『リンゴ園の少女』をみつけた。値段は五十円であった。

 振り返ってみれば、この本を母に読み聞かせてから、もう六十年近い歳月が流れていた。

 再びこの本に出会った私は、少年だったあの日の自分と、まだ若かった母に、本の中で出会えるような気がして、心が躍った。

 その母は、認知症を患う事もなく、五年前老衰で九十九歳の生涯を閉じた。

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