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コーヒーが冷めないうちに _読書エッセイ

優秀賞

コーヒーが冷めないうちに

小森ちあき・大阪府・52歳

 最後の言葉「もう口も聞きたくない」と主人に言ったのはもう十三年前の事。その日、私達夫婦は私の友人K子夫婦と行きつけの珈琲店で昼食を共にしていた。その最中に主人が言った冗談が私の気に障った事と、出かける寸前まで喧嘩をしていた事が多大に加味され、自分に非がある事を理解しつつも感情を抑えきれなかった。仲裁に入るK子夫妻の言葉に耳も貸さず支離滅裂な暴言をぶつけ「もう口も聞きたくない」と言い放ち、私は珈琲店から飛び出した。

 追いかけて来たK子に宥められ店には戻るものの帰宅後も、主人と言葉を交わす事はなかった。しかし、その二日後、主人は突然外出先でくも膜下出血を発症し意識不明の重体に陥り、医師からは「もう死を待つだけ」との告知を受け、私の心は暗黒の谷底に突き落とされた。ただひたすら眠り続ける主人を前に、私が最後に言った「もう口も聞きたくない」の言葉が現実化された恐怖と迫りくる死の影に怯え、来る日も来る日も謝罪の涙を流し続けた。見舞いに来てくれたK子夫婦の励ましも耳朶には届かず、ただ「過去に戻って言葉を撤回したい」と勝手な言葉を呟き続けたと記憶する。

 その後、主人は九か月の昏睡状態を経て四十六年間の生涯の幕を閉じたが「もう口も聞きたくない」の言葉に拉致された私の心は、どす黒いコールタールのような後悔の念に覆われていた。

 月日の流れはゆっくりではあったが、主人を失った悲しみこそ癒してくれたが、私の罪悪感は決して消し去られる気配はなかった。

 そんなある日、K子から一冊の本が届いた。本を手にした瞬間、私は本に巻かれた帯の「お願いします、あの日に戻らせてください」の一文に釘づけになった。その本の題名は『コーヒーが冷めないうちに』であり、内容はある珈琲店の決められた席に座れた人間だけが過去に戻れる。しかし、そこにはルールがあり、①過去に戻ってもこの珈琲店を訪れた事のない人には会う事が出来ない。②過去に戻ってどんな努力をしても現実は変わらない。③過去に戻るには決められた席に座らなければならない。④過去に戻っても座っている席からは移動できない。⑤制限時間がある。この制限時間は従業員が淹れた珈琲が冷めないうちに飲み干し過去から現在に戻らなければ幽霊になってしまう。というもので、必ず客を過去に送り出す際、従業員は「コーヒーが冷めないうちに」と言葉をかける。

 私は即座に主人に暴言を吐いた珈琲店と小説の中の珈琲店とを重ね合わせ全てのルールをクリア出来る自分も過去に戻れるような錯覚に陥った。そのまま読み進めると、ある部分に赤い傍線が引いてありそこには、死んだ妹に会いにいった姉が「あの子の死がきっかけで、私や両親が不幸になれば、あの子は私達を不幸にするために生まれてきて、私達を不幸にするために死んでいった事になる。だから、生きている私のこれからの生き方が、あの子の『生まれてきた意味』をつくるんじゃないかな?」と友人にメールで語る場面であり、きっとK子が引いたのであろうその傍線部分が、私の心を大きく揺さぶった。

 その通りだ。私が不幸になれば主人は、私を不幸にするために結婚し、不幸にするために死んでいった事になる。私は主人の遺影の前に行き「許してくれるかな?」と小さな声で呟いた。遺影の中の主人がほんの少し頷いたような気がした。

 その数日後、私はK子と例の珈琲店にいた。主人が倒れて以降初めて訪れる珈琲店だったが、以前と変わりなく私を優しく迎えてくれた。いつも主人と座っていた席に座ると鮮明に過去の記憶が蘇ってきた。そう、主人からプロポーズされたのも、休日の朝食を摂るのもこの珈琲店であった。そんなかけがえのない小さな幸福の余韻に浸る私にK子が、珈琲店から飛び出した私をK子が追いかけて外に出た後、主人はK子のご主人に「いつもの決め台詞ですよ。もう何回も言われてます。その我儘が結構可愛いんですがね」と笑っていた事を教えてくれた。

「旦那が今頃言うのよ。『もっと、早く言え』って怒ってやった」と言った後「だから、もう過去に戻らなくていいんだよ」と微笑むK子に私は「それならプロポーズされた日に戻り私の『もう口も聞きたくない』は最大の愛情表現だからね。と伝えなきゃ」と笑う二人の元に珈琲が運ばれて来た。そしてK子が私に言った。「コーヒーが冷めないうちに」と。目の前に漂う珈琲の湯気の向こうで主人が優しく微笑んでいた。

 今でも無性に主人に会いたくなる時がある。そんな時は、この店を訪れ珈琲を注文し、過去に戻り主人と再会する。但し、小説内では過去に戻れるのは一度切りだが、そこは勝手に変えさせてもらい淹れたての珈琲を前に私は呟く。「コーヒーが冷めないうちに」と。

 短い結婚生活であったが、主人と過ごした日々は確実に私の人生を輝かせてくれた。そう命には終わりがあるが続きがある。私は今も、この本と主人を相棒に幸せに生きている。

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