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山の畑で _読書エッセイ

山の畑で

高島緑(たかしま・みどり)・62歳

 昭和29年、一軒の本屋もない愛媛の山深い寒村に生まれた私であるが、のちに本が好きになったのは母の影響かもしれない。
 野良仕事をしながら、夜なべに縫い物をしながら、母はよく昔話を聞かせてくれた。おとぎ話から神話、伝記や軍記物に至るまで、その話の内容は実に豊富で私たち子どもを飽きさせなかった。しかも、それらの多くは親、つまり私の祖父母から、子どものころに聞いたものだというから驚きだ。
 昔は夜になると、きょうだいたちが囲炉裏端に集まり、親の語る昔話に聴き入ったという。娯楽の少ない時代だったとはいえ、何と心豊かな日々であったことか。祖父母の家にあった囲炉裏は記憶に残っており、懐かしい昭和の原風景とともに、母の語ってくれた昔話は今でもよく思い出す。
 中学に上った私は、学校の図書室で本を借りて帰るのが何よりの楽しみとなった。宮沢賢治や志賀直哉、井上靖など、さまざまな作家の本を読んだが、なかでも特に心がひかれたのは壺井栄の小説だった。
『二十四の瞳』『柿の木のある家』『母のない子と子のない母と』……。何度も繰り返し読んでいるうちに、自分ひとりで読むのは勿体ない、今度は母に聴かせてやりたいと思うようになった。
 そして、学校から帰ると本を提げて、昨日は裏山の畑、今日は向かいの山の畑と、野良仕事をしている母のところへ行っては、大きな声で読んで聴かせた。
 畑の中を母が動くたびに、私も本を読みながら一緒に畦道を移動する。母は時々、鍬を振るう手を止めて腰を伸ばし、「ほう……」「まあ……」と、こちらを向いては相づちを打つ。時には深いため息をもらしながら、とても真剣に聴いてくれた。それがうれしくて、日が落ち、文字が見えなくなるまで一生懸命に読み続けたものだ。
 母も壺井栄の小説が好きだった。「素朴さがいいわいのう」と言っていたが、今になって思うと、それだけではないような気もする。封建的な古い農家に嫁ぎ、当時も苦労の最中にあった母には、作者の描く昔の家の成り立ちや社会、また戦争という時代背景にも共感するものがあったのではないだろうか。
 くる日もくる日も過酷な農作業に追われ、何の自由もないなか、嫁としてひたすら仕え、家を守り子を育ててきた母であった。あの深いため息の底には、声に出せないものが静かに沈んでいたのかもしれない。
 高校を卒業した私は故郷を離れ、関西の地で就職した。そして結婚、出産を経て昭和57年夏に、夫の故郷である香川に戻ってきた。穏やかな瀬戸の海に緑の島影。壺井栄の故郷・小豆島はすぐそばに見える。この地に住むことになるとは夢にも思わなかった。
 一度、母を連れて行きたい。そんな願いがやっと叶って、10年ほど前、奥伊予の山から母を連れ出し、島へ案内することができた。
『二十四の瞳』の舞台・岬の分教場では、昔のままのオルガンや机が並ぶ教室で、時代の波と戦いながら逞しく生き抜いた作者を偲び、母は感慨深げだった。そんな顔を見ながら私は、遠い日、二人で過ごした畑での光景を思い出し、懐かしさでいっぱいになった。
 40年たって、まさか一緒にこんな日を迎えるなんて想像もしなかった。
 母はこの秋、86歳になった。野良の仕事こそ、もう昔のようにはできないが、故郷の山家で弟の家族と一緒に、元気で穏やかな日々を送っている。
「変わりはない?」
「なんちゃ変わったことはないぜ」
 電話のむこうでそう答える母の声に安心する。
 故郷の山は年々深くなり、庭先から見えていた山裾の畑は、茂った木々にさえぎられていつの間にか見えなくなった。しかし、歳月とともによみがえってくるものもある。
 働いても働いても貧しく苦しい日々。あのころの母に気持のゆとりなどあるはずはなかった。それでも、本を読む私の声に真剣に耳を傾け、時々投げかけてくれたあのまなざしが、年を重ねるごとに私の中で、だんだん温かみを増してくる。

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