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父は、にわか講談師 _読書エッセイ

優秀賞

父は、にわか講談師

堀江純子・静岡県・39歳

とにかく私は字を覚えるのが遅かった。
 確か、幼稚園の年長組のころだったと思う。心配した担任の先生が、就学前には自分の名前を書くことが出来、ひらがなぐらいは読めるようにしておく方が良 いだろうと、私の母に耳打ちしたようだった。真に受けた母は父に相談し、二人で一体どうしたものかと心を砕いた。
「この子ったら絵本なんかろくに読まないもんねぇ」
 母がため息混じりに呟いた。
 私は決して絵本が嫌いだったわけではない。ただ、可愛らしく賑やかな絵ばかりに夢中になってしまい、とんと文字を追うことがなかっただけだ。
 たぶんそのころからだと思う。父は私と一緒にお風呂に入る度に、『こぶとりじいさん』を話して聞かせた。それまでは、私がカラスの行水でろくに湯も浸か らないうちにお風呂から上がってしまうため、「百まで数えたら上がってもいい」と言っていたのだが、そのうち「『こぶとりじいさん』を聞き終わったら上 がってもいい」というような按配になった。
 父にとって私は、四十六歳にして初めて授かった娘であり、そのため私が幼稚園の時、父はすでに五十を越えていた。大正十三年生まれの昔かたぎ気質で、寡 黙な職人だった。娘のために何か物語を聞かせるにしても、アンデルセンやグリムの童話なんてハイカラなものは知らなかったから、おそらくラジオか何かで聞 きかじった『こぶとりじいさん』に色をつけて、私に話して聞かせたに違いない。そうすることで、娘が少しでも本に興味を持って、読み書きの出来る大人に なって欲しいと思ったのであろう。
「むかしむかし、そうだな四、五十年も前だな。トクさんという七十を少し過ぎたおじいさんがいてな」
 父の話は実に具体的だった。最初のうちはそうでもなかったが、毎晩お風呂に入る度に『こぶとりじいさん』一辺倒に話して聞かせるためか、妙にリアリティを増して来るのだった。
「ほれ、右のほっぺたのこの辺りに、そうだな、お前の握りこぶし一つ分ぐらいのこぶがあって、あっちこっちの医者に診てもらったところ、このこぶはとうて い取ることが出来ないと言われて、仕方なしにそのまんまこぶのある顔で生活していたんだ」
 父の話しぶりと言ったら、それはまるで見て来たように話すので、聞いている私もついつい「それで、それで?」と引き込まれてしまった。
「ある晩、村の寄り合いか何かあって、トクさんが帰ろうとしたところ、道に迷ったんだ。なにしろそのころは常夜灯なんかないからな、辺りは真っ暗さ。それ で向こうの方に、どこかのお宅の明かりが見えて近づいてみると、あろうことか鬼の宴会に出くわしてしまったんだ。ちょうど年末の忘年会の時期だったから な」などと話してくれたくだりは、今もって忘れられない。父は、私が少しでも想像し易いように話してくれたのだ。
「なにしろこういうおもしろいお話は、本に書いてあるから、とにかくたくさん読んでみると楽しいぞ」
 父は『こぶとりじいさん』を話し終えると、必ずそう言って、私に本を読むのをやんわりと勧めた。字を覚えさせるためだけなら、学習塾にでも通わせて、他 の子たちと競わせるようにして勉強させれば、否が応でもひらがなの読み書きは出来たであろう。だが、父はそういうことはしなかった。本に対する好奇心か ら、楽しい物語に触れて、少しずつ字を覚えてくれるようになればいい、そう思ったのだ。
 小学校に上がると、私は人並みに自分の名前も書けるし、教科書の字も読めて、もちろんひらがなもちゃんと書くことが出来るようになった。幼稚園の先生の心配は、杞憂に過ぎなかったのだ。
 その後、私が結婚して子どもが出来た時、あの時の父みたいに昔話を具体的に、しかも見て来たように話そうと思っても、とても真似など出来なかった。私に は、絵本に書いてある文章をなるべく抑揚を付けて読んで聞かせるのが関の山だった。
 だがおかげさまで、人さまには「趣味は読書です」とまで言えるほど、私は本が好きになり、遠方の友人にはせっせと手紙を書く筆まめな性格になった。
 父の講談は『こぶとりじいさん』一本だけだったが、あれほどまで私を夢中にさせたのは、ひとえに、父の並々ならぬ愛情が込められていたからにほかならない。ただただ天国の父に、感謝の一言である。

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